ちょっと上から目線ですみませんな安保法案の採決について思うこと

ここ最近、安保法案について、考え、思い悩むことが多かった。何度も国会の前に行き、デモの空気を感じてきた。さまざまな立場の友人とも語り合った。そして、今、自分の中で2つの結論が導き出された。それをここに書き留めておきたいと思う。公務員としての私が、こういう場で政治的なことを書くのは、よろしくないことだとは重々承知しているが、あくまで個人的な意見として書いていきたい。また、未来への記録として・・・。結論の1つは、安保をめぐるそれぞれの立場の分析、もう1つは、自分の安保法案に対する考えだ。

 

まず、1つ目であるが、今回の安保法案の強制採決について、与党に思うことは、「理想なき現実主義」であるということ、デモ側に思うことは、「現実なき理想主義」だということである。

 

前者について思うこと、今回の安保についての国会での答弁を鳥瞰していると、ケースバイケースで法案について具体的な例を持ち出して説明をしているが、どんどん話がブレてしまい、結果として、何を言いたいのか、目指している理想はなんなのかよくわからない(例えば、中東の石油供給の話など)。「説明不足だ」と言われる所以であろう。首相は、「時がくれば理解してもらえる」と述べているが、そもそも目指しているところがブレブレなので、その言葉にも説得力がない。だからこそ、「首相は戦争をしたいだけなんじゃないのか」、「憲法読めない首相はやめろ」などという批判を招いてしまうのだと思う。理想を抽象的レベルできちんと整理し、その適正な具体例としてそれぞれのケースを出し、説明を行って欲しいと思う。なにを目指しているのか分からないからデモが起きる。国民も曖昧に安保法案を捉えるしかないし、「戦争法案」というレッテルを貼り解釈をするしかなくなる。「戦争法案」でないのなら、違う理由と法案によって目指すべきところをしっかりと示してほしい。

 

後者についてであるが、デモに参加している人たちが、どれほど現実を見て自分の主張をしているかが気になる。先日、国会前に足を運び、デモに参加している多くの人たちの様子を見てきた。その多く人たちは、空気に流され反対の声を上げているように思えた。自分の仲間がそう言うから、自分のお世話になった人がそう言うから、だから反対・・・。本当に、自身の主張があれば、利害関係を抜きにして、もっと相手を尊重して自身の考えを述べることができるはずだと思うし、誹謗中傷の言葉には乗らないはずだ。主張が違うからといって、相手の人格まで否定するのは、「いじめの論理」だ。国会前に溢れていた言葉は、「誹謗中傷」ばかり、どこか軽い言葉に満ちていたように思う。そういった視点で自分の主張を決めている人が多いことは、民主主義国家の一員としてとても残念に思う。もっと、一人ひとりが、自分なりに情報収集し、整理し、「個」としての自分の主張を創るべきだと思う。

 

また、デモに参加している人は、自分たちのやっている法案反対が、結果として自分の家族や仲間を危険にさらす可能性があることを想像できているのだろうか(もちろん、自衛隊派遣によって不要な恨みを買ってしまった方が、危険だという主張もなるほどと思うが・・・。)「教え子を戦争に行かせない」、「話し合いで解決したい」という思いは私も賛成だが、隣国の脅威や、テロの脅威、どちらも話し合いの通じる相手ではない。話し合いの通じないような相手に、果たして「話し合いで解決しようとする」ことが、どれだけ自分たちの命を危険な状況に追いやってしまうか気がついているのか。

 

デモに参加している人に聞いてみたい。もし、有事が発生し、例えば、目の前で米兵がバタバタと倒されている状況の中で、本当に指を加えて見守るだけということができるのか?目の前で傷ついている人がいて、手助けをしないということができるのか?手助けをしたら集団的自衛権を発動したことになる。そういう有事の状況をシュミレーションした上で、デモの声を上げているのか?

 

さらに、「デモの声を聞こうとしない強行採決は民主主義を冒涜している」との声もあるが、デモをした結果、採決が、法律が変わってしまったら、それこそ、民主主義の冒涜だ。デモは直接民主主義としての行為ではない。デモは単なる「示威行為」だ。デモのデモはデモクラシーではない。もちろん、きちんとした合意形成を図った上で採決を図ることが理想だが、現実的に有権者6000万人の現在では、それは不可能に近い。だからこそ、間接民主主義を通じて政治が行われている。間接民主主義のルールも決まっている。ルールにそった採決は今の民主主義のあり方であると言わざるを得ない。また、現在の与党を決めたのも、今の国民である。デモをやるのであれば、なぜ、選挙前にやらなかったのか、すでに先の選挙の時に、今回のようになることは分かっていたはずだ。今回の安保法案の強制採決が「民意を反映していない」というのは、はっきり言って民主主義の原理を無視したズレた考えだ。

 

では、今回の安保法案の強制採決に対するデモは無意味であったか。いや、そうではない。デモは、未来のためにある。デモを通じて世論の空気を創り、次の選挙で変えれば良い。また、志ある若者や今まで声を上げなかった若者も今回のデモで目覚め始めたはずだ。今回の安保法案が本当に良くないものであると思うのであれば、次の選挙で賛成議員を落選させ、政権を交代させ、廃案にすればいいのだ。(といっても、その時に、受け皿となれる政党があればいいのだが・・・)今回のデモを発端として、国民一人ひとりに社会を変えようとする気運が生まれることを期待したい。

 

現在の安保法案を取り巻く様子を見ていると、そもそも議論が成り立っていない。いや、議論するためのそれぞれのベースに大きなズレが生じている。与党は説明不足であるし,デモ側は解釈不足である。もしかしたら、民主主義が崩壊しているというのであれば、そのズレに気づかない大人があまりに多いからなのではないか。もしくは,そのズレを感じていても声を出さず,黙ってみている人が多いからではないか。

 

もちろん、今、私が述べたようなことを踏まえ、もしくは、確固たる自分の信念でデモ参加している人もいたことも事実だ。歴史を振り返り、国家主義的な考えや、戦争への傾倒に警鐘を鳴らすために立ち上がった人たち。連日、国会に足を運ぶ,遅くまで声を挙げ,誠実な思いで動く姿に敬意を払いたい。

 

次に2つ目の私自身の安保法案に対する思いを述べたい。ここまで私は、あくまで、それぞれの立場への自分なりの冷静な分析を書いてきたつもりだ。私の本当の主張は別にある。私自身の思いは、今回、強行採決された安保法案には断固反対である。私は、戦後を経て、ようやく築き上げてきた「平和主義」を、例え、アメリカの庇護のもとであっても、諸外国から成熟していない国家だ、バカな国家だと言われても、つらぬきたいと思う。

 

安保法案賛成派の方はこういうことを言うだろう。「もし、テロが起き、自分の子が目の前で殺されそうになったらどうするのですか?」、私は、「その運命に従うしかない。」と答えるだろう。もちろん、正当防衛(個別的自衛権)を行使するだろうし、そもそもそういう状況にならないような最大限の外交努力はしたい。しかし、それでも、その状況が訪れた時、私は「平和」を、「人間らしく生きることの大切さ」を叫び、自分の子の盾となって死のうと思う。私たちの国家は、多くの人々の犠牲の上に今の「平和国家」を築き上げ、人間が人間らしく生きる権利を獲得してきた。そのような国だからこそ、また、唯一の被爆国であるからこそ、「世界における平和の象徴としての国家をつらぬく義務」があるのだと思う。その義務は、首相の述べる自国の安全よりも大切なことであると考えている。つまり、国民のアイデンティティとして今回の問題を捉え、国民の生き様として憲法を守り、安保法案に反対したいのである。世界に数ある国の中で、もし、有事が発生したとしても、人間らしく生きること、生きたいということを最後までつらぬき、「平和」を叫びながら滅ぶ国があってもいいのではないか。(積極的に滅ぶわけではありませんが・・・。)自分の命をかけても、平和を主張したいのである。

 

願わくは、テロ行為がこれ以上拡大しないことと、隣国を孤立化させずに、国際社会の土台の上で、きちんと話し合うことを通じて、互いに生じている問題を解決できることを期待したい。

 

過去、私は、「悪いことは悪い」と自分の信念をつらぬき、行政と戦ったことがある。そして、学んだことがある。その時に戦った結果は、運良くそれなりの成果を上げることができたように思うが、それまでに、自分の身に降りかかった不利益は多大なものであり、家族の暮らしをも脅かすリスクがあった。ポストを剥奪され、左遷され、到底納得のできないような誹謗中傷の噂を流され、それでも、自分の信念をつらぬき戦った。賛同してくれる仲間もいた。信念を貫くということは、楽観的に文句ばかり言うことではない。なにかを主張するということは、自分を安全なところに置いて、空気に流されて叫ぶことではない。自分へのリスクへ目を向け、どう乗り越えていくか考え、そして、状況に応じて臨機応変に対応し,それでも実際に行動し続けることなのだ。それが、民主主義的な国家における大人のあり方であってほしい。

 

私は選挙にいく。しかし、私はデモの中では叫ばない。今回のデモのあり方は,私らしくないからだ。私は、私個人として反対を叫ぶ。人とは違うかもしれないが、自分なりの考えをもって叫ぶ。そして、自分のその時の職分の中で、できることをしていく。今,私にできることは、民主的な感覚をもった子どもたちを育て上げること。そのための教育実践を日々行うことである。

 

私は、法律研究家でもないし、政治ジャーナリストでもないので、しっかりと勉強されている方には、ここに書いてある内容が、幼稚なものと映るかもしれないが、それでも今の私の考えだ。自己の主張と違うからといって、感情的に相手を誹謗中傷し、相手の意見の本質を見抜こうとしないのは、民主的とは言えない。今回の安保法案の強制採決は敗北ではない。ここからが始まりだ。これから自分がどう行動するか,それが問われているように思う。